「蛙の子は蛙」というのは、日本に古くから伝わることわざであり、子供が親に似ることを指しています。このことわざは、親の持つ特性や行動パターンが、自然と子供にも受け継がれるという事実を表現しています。
これは遺伝や育成環境に起因するもので、親が持つ特徴や性格がそのまま子供に反映されることを示しています。
親と子供の関係性を表現する際に「蛙の子は蛙」という言葉はよく使われます。たとえば、親が芸術的な才能を持っていれば、その子供も同じような芸術的才能を示す場合に、このことわざが当てはまります。
子供が親に似ていることを強調したいときに使われるのです。しかし、この言葉を使う際には、注意すべき点があります。
「蛙の子は蛙」ということわざには、「凡人の子はやはり凡人である」という否定的な意味が含まれているのです。つまり、親が特に優れた人物でない場合、その子供もまた平凡な存在にとどまるだろうという見方が含まれています。
このため、称賛の意図でこのことわざを使うと、逆効果になってしまうことがあります。
たとえば、子供が親に似て立派に成長したことを褒めたい場合に「蛙の子は蛙」と言ってしまうと、聞き手には「親に似て凡人になった」というニュアンスが伝わってしまうかもしれません。
これでは、本来の褒める意図が誤解され、相手に不快な思いをさせてしまうことになりかねません。
したがって、このことわざは自分自身を謙遜する際に使うのが適しています。たとえば、自分が平凡な人間であることを認め、それが親の影響であることを説明する場合に「蛙の子は蛙」という表現を使うと、謙虚な姿勢を示すことができます。
同様のことわざとして「鳶が鷹を生む」という言葉もあります。これは、平凡な親から優れた子供が生まれることを意味していますが、逆に考えると、期待外れの結果になることを暗示しています。
「鳶が鷹を生む」という表現もまた、使い方に注意が必要です。親と子供の関係性を評価する際には、これらのことわざの持つニュアンスを理解し、適切な場面で使うことが重要です。親子の類似性を指摘する際には、その意図が誤解されないように、慎重に言葉を選びましょう。
蛙の子は蛙をいい意味で使うことはできるか
「いい意味」をどう考えるかです。
もともと、蛙の子は蛙は、子供の才能や性質は親ににるものだということのたとえです。
ご隠居さんと熊さんが将棋を指しています。
ご隠居さん 「せがれの将棋は本当にヘボでね」
熊さん 「そいつはいいや。やっぱり、蛙の子は蛙だね」
こんな風になら、他人に対してもいい味かげんで使えるんでしょうね。
しかし、蛙の子は蛙は、どちらかといえば、もう一つのニュアンスである、
- 「蛙の子は、蛙にしかなれない」
- 「親を超えることはできない」
- 「凡人の子は凡人にしかなれない」
というマイナスイメージでとらえている人のほうが多いです。
「蛙の子は蛙」ということばを、文脈の中でそのままいい意味で使うのは難しいものです。
話す相手、内容、話の前後それらを考えて「子供の才能や性質は親ににるものだ」の主旨で話さないと誤解を招きます。
なお、蛙の子は蛙のように、親と子の関係をたとえることわざは結構あります。
蛙の子は蛙の類語
- 瓜の蔓に茄子はならぬ(うりのつるになすびはならぬ)。
平凡な親から非凡な子は生まれないことのたとえ。
血筋は争えないというこなんです。また、原因のないところに結果はないというたとえです。 - 鳶の子は鷹にならず(とびのこはたかにならず)
平凡な親から生まれた子は、結局は非凡な人間にはなれないというたとえ。鳶の子をどのように育てても、鷹にはならないということ。
蛙の子は蛙の対義語
- 鳶が鷹を生む(とびがたかをうむ)。
平穏な両親からすぐれた子が生まれることのたとえ。
鳶が孔雀を生む、ともいいます。
補足
「この親にしてこの子あり」ということわざがあります。
先程の部下の発言でいえば、「・・・優勝ってすごい。この親にしてこの子ありですね」だったらまだよかったんです。
部長も苦笑いでごまかすこともなかったかもしれません。
ただ「この親にしてこの子あり」は、良い意味でも、悪い意味でも使われる、ちょっとヤッカイなことばです。
よい意味だと:すぐれた親からは、すぐれた子供が生まれる。
悪い意味だと:できの悪い親からはできの悪い子供が生まれる。
で、どちらかといえば悪い意味で使われる、と思っている人が多いんです。
よい意味で使ったのに、変に誤解されてはたまりません。
使うのはできるだけ避けたほうがよいことばです。
まとめ
「蛙の子は蛙」の意味は、結局子は親に似るものだということ。
「いくら背のびしても、蛙の子は蛙だ」ということなんです。
本人が謙遜の気持ちを込めて使うのがこのことわざの正しい使い方です。
決して他人に向けてほめ言葉として使うことわざではありません。
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