私の最後はこうありたい|“お墓に入らない”選択と心の自由

最後は自分らしくお墓に入らない自由な選択を象徴する道と朝日の風景

「お墓に入りたくない」「永代供養で十分」――そんな言葉を口にするのは、単に子どもに迷惑をかけたくないからだけではありません。むしろ大きいのは、自分自身が「どんな最期を迎えたいか」という思いではないでしょうか。

今回は、私自身が心を動かされたある禅僧の言葉をきっかけに、お墓に入らないという選択をどう受け入れ、永代供養へのわだかまりをどう解いてきたのかを物語としてお伝えします。きっと同年代の方にも、またそんな親を持つ子ども世代の方にも「なるほど」と思っていただけるのではないでしょうか。

私が心を動かされた禅僧の言葉

ある日、禅宗のお坊さんの法話を聞く機会がありました。その方は淡々とした口調で、こんな言葉を口にしたのです。

「道端で野垂れ死んでもいい」

「自分は道端で野垂れ死んでもいいと思っている。あとのことはどうでもいい」――。まるで肩の力を抜くように語られたその言葉に、私は衝撃を受けました。死というものをあまりにも自然に受け止めている姿勢に、はっとさせられたのです。

多くの人が「死後どう弔われるか」「どこに眠るか」にこだわり、不安を抱きます。私自身もその一人でした。しかしこの言葉を耳にした瞬間、死後の形式にこだわる自分の心が小さく見えてしまったのです。

生き方の延長線としての最期

お坊さんは続けました。「大事なのは、どう生きたか。その延長に死があるだけ」。供養の形や場所よりも、生きている間にどう人と関わり、どんな心持ちで過ごしたかこそが重要なのだと語るのです。

この言葉を聞いたとき、私の中で「最後はこうありたい」という気持ちが芽生えました。見栄えのいい墓石や格式ばった儀式ではなく、自然に、ありのままに旅立てればそれでいいのだと。

永代供養へのわだかまりが消えた瞬間

正直に言えば、私は以前、永代供養という形に抵抗感を持っていました。見知らぬ人と同じ供養墓に入ることに、どこか寂しさを感じていたからです。

最初に抱いた抵抗感

「せっかく生きてきたのに、名前も墓標も残らず、誰かと一緒にまとめられてしまうのか」。そんなわだかまりが、心のどこかにありました。子どもに負担をかけたくないと思う一方で、どこかで「自分らしさを失うのでは」と感じていたのです。

そのわだかまりを溶かした視点

しかしあの禅僧の言葉を思い出したとき、考えが変わりました。私たちは本来、大きな自然の一部です。死後に土へ還ること、誰かと同じ墓に眠ることは、「自分が個を超えて大きな存在に戻る」ことなのだと気づいたのです。

そう思えたとき、不思議と胸の中の重石が外れました。永代供養は「無縁」ではなく「共に眠る」場であり、自分が自然や人とのつながりに還る形なのだと受け入れられるようになったのです。

「お墓に入らない」選択肢の広がり

ここで少し現実的なお話もしておきましょう。お墓に入らない選択肢は年々増えています。それぞれの特徴を整理してみます。

永代供養

寺院や霊園が責任をもって供養してくれる形。費用は比較的抑えられ、子どもに管理を託さなくても済むのが安心です。個別に安置される場合もあれば、合同供養墓に納められる場合もあります。

散骨・樹木葬

海や山に散骨する、樹木の根元に眠るといった「自然に還る」方法です。形式よりも「自由に生きたように自由に還る」思いに寄り添った供養です。ただし散骨は法的に節度をもって行う必要があります。

自宅供養・手元供養

小さな骨壺やペンダントに遺骨を納め、自宅で供養する方法。形式にとらわれず「いつもそばにいてほしい」という気持ちを大切にできます。

最後は「どう生きるか」の延長線

結局のところ、供養の形は人それぞれです。しかし共通して言えるのは、「どう弔われたいか」は「どう生きたいか」の延長線にある、ということです。

子どもに託すのではなく、自分で決める

「子どもに迷惑をかけたくない」という理由もありますが、それ以上に「自分の最後は自分で決めたい」という主体性が大切です。家族に頼むのではなく、自分が納得できる形を選ぶこと。それが残される人への安心にもつながります。

残された家族へのメッセージ

お墓の形や有無にこだわるよりも、私が大切だと思うのは「ありがとう」と感謝を伝えておくことです。その言葉があれば、残された家族にとって大きな支えになり、心の中で自然と供養につながっていくのではないでしょうか。

まとめ

「お墓に入らない」という選択は、決して寂しいものではありません。むしろ、自分らしく最後を迎えるための前向きな決断です。禅僧の「道端で野垂れ死んでもいい」という言葉に触れたことで、私は永代供養への抵抗を手放し、心が軽くなりました。

供養の形にとらわれるより、「どう生きるか」「どんな思いを残すか」が大切です。最期の姿をどう選ぶかは、その人の生き方の証でもあるのです。

じんさんのひとこと

「最期はどうでもいい」と笑い飛ばせるくらいの心境になれたら、それこそ最高の終活かもしれません。私も少しずつ、そんな心の自由を手に入れていきたいと思っています。

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